どうなってんの? マントル細胞リンパ腫闘病記

2015年3月。脾臓の腫れから発覚した悪性リンパ腫。脾臓摘出・生検の結果、判明した病型はとりわけ手ごわいといわれ、 標準治療も定まっていないマントル細胞リンパ腫(MCL)だった…。 自覚症状のなさと医師のシビアすぎる診断とのギャップに頭の中はチンプンカンプン。いったい全体わたしの身体どうなってんの? MCLと闘う50代オバさんの記録です。

 

求めよ、さらば…/day6 幹細胞採取3日目


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◆2015年12月10日(木) day6 幹細胞採取3日目(通算5回目)
朝の血液検査でCD34陽性細胞が確認された。今日採れなければこのミッションも終了だ。Uさんに見送られ、看護師さんと一緒に歩いてIVRセンターへ。
いつぞやの美人ドクターが待っていて、今日は首(内頸静脈)にカテーテルを入れると言う。首は初めてだったが、ドクターは自信をもって「安全ですよ」と。たしかに穿刺はスムーズで、あっという間に終わった。

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返血ラインは昨日同様、血管ハンターY先生が一発で入れてくれた。そして付き添いは今日もI先生だ。今日でもう通算5回目、毎回お昼ご飯を抜いて…。仕事とはいえ、不満げな顔ひとつ見せず、淡々と付き添ってくれるのだった。

採取の準備をしながら、技士のFさんが
「今朝のデータはいつもとちょっと違うみたいでしたよ」と言う。先生方の様子もいつもと違っていた、と。なんだか意味ありげにそう告げて、Fさんは着々と仕事を進めた。様子が違うって…どう違ったんだろう?

採取中は音楽を聴いてはいたが、頭の中は完全に思考停止状態。ひたすら『採れますように、採れますように』と祈っていた。3時間半はあっという間だった。

採取が終わり、病室に戻る。夫や友人たちに報告のメールやラインをしていると、いつのまにか時間が経ち、窓の外は夜の帳が下りていた。
ふと、なにか気配がして振り返ると、そこには息を切らしたI先生が立っていた。

「S口さん、採れました。2、採れました!」

I先生はわたしに向かってピースサインを突き出した。と思ったが、それはピースではなく「2」を示していたのだ。移植可能な最低量の「2」を。

「やったーーー!!」

わたしは思わず叫んだ。病棟中に響くような大声で。
病棟にはいろんな人がいる。みんな病人だし、辛い状況にいる人も少なくない。なのに大声で歓喜を叫ぶとは。あとであまりにも配慮がなさ過ぎたと反省したが、そんなことも思い至らないほど喜びを爆発させてしまったのだった。

Uさんや同室の人たち、看護師さんたちも集まってきて、みんな「よかった。よかったね」と一緒に喜んでくれた。I先生に
「ありがとうございます、ほんとにありがとうございます」と頭を下げると、
「いやぁ、わたしも昼ごはんを抜いた甲斐がありましたよ」
そう言って笑うI先生は頬が紅潮し、髪も少し乱れている。一刻も早くわたしに伝えてあげようと走ってきたらしい。そこにはかつてのアンドロイド先生の面影はどこにもなかった。目の前にいるのは、活き活きと血の通ったドクターの姿だった。

夫にラインで報せようとiPhoneを手にしたとたん、当の夫が病室に現れた。わたしが何か言おうとするのを制して、
「わかってる。聞こえた」と言う。廊下を歩いている夫の耳にもわたしの大声が聞こえていたらしい。夫はまったく動じることなく「採れて当然」という顔をしていた。M先生ならきっとやってくれる。そう信じていたのだろう。

夫とひとしきりおしゃべりしてエレベーターホールまで見送り、階段そばの電話OKスペースで姉や母に報告の電話をし、友人たちにメールやラインをして、ふと我に返るとずいぶん時間が経っていた。
そこでやっとわたしは気づいた。しまった、M先生にお礼を言ってない!

わたしは慌ててナースステーションの方へ走って行った。しかし、ドクターコーナーは薄暗くガランとしており、もう誰もいなかった。

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人生にはタイミングがある。外してはいけないタイミングが。
その一瞬を逃したら、二度と手に入らないものがある。

もちろん、わたしの喜びはきっと伝わっていただろうけれど。
それでも、あのとき笑顔の鬼コーチと喜びを分かち合わなかったことを、わたしは今でもとても残念に思っている。


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