どうなってんの? マントル細胞リンパ腫闘病記

2015年3月。脾臓の腫れから発覚した悪性リンパ腫。脾臓摘出・生検の結果、判明した病型はとりわけ手ごわいといわれ、 標準治療も定まっていないマントル細胞リンパ腫(MCL)だった…。 自覚症状のなさと医師のシビアすぎる診断とのギャップに頭の中はチンプンカンプン。いったい全体わたしの身体どうなってんの? MCLと闘う50代オバさんの記録です。

 

父の闘病記


4コースに進む前に、ちょっと寄り道を(またかいな。しかも長いです)

この闘病記を読んでくださっている方は、わたしがもともと前向きで、常に病気に対してファイティングポーズがとれるタフな人物に思えるかもしれないが、実はそうではない。わたしの闘病スタイルには模範となる存在があった。それは父だ。

母は厳しく父は甘い家庭で育ったわたしは、完璧なお父さん子だった。

父は中学時代に祖父が亡くなったため、苦学生で働きながら大学を出た。アルバイトを掛け持ちしながらも登山や車に熱中したり、遊ぶことも忘れなかったようだ。
会社に入り、ヨット部に入部。さらにスキーや登山、後年はゴルフに夢中だった。出世は同期で一番遅かったが、困難な仕事をいくつかやり遂げてポンポンと出世し、最後は結構なところまで上り詰めた。父はいつも前向きで、バイタリティに溢れていた。

わたしが結婚した年、父はのびのびになっていた心臓の弁置換手術を受けた。74歳のときだ。かなり厳しい手術で、術後何度も心臓が止まって死にかけたが、どうにか九死に一生を得て、めきめきと回復。もともと活発な人だったが、退院後は輪をかけてアクティブになった。週に2回のゴルフ(コース)、日曜大工、庭の手入れ。さらに学生時代の仲間と男声合唱団を作ってかなり注力していた。友達が多くお誘いもいっぱいで、父のカレンダーは常に予定で真っ黒、まさにリア充なじいさんだった。
そんな父が86歳で急性骨髄性白血病を発症し、2週間という慌ただしさで逝ってから、もう7年になる。

父の心臓弁膜症の闘病記のことを思い出したのは、わたしがKがん病院に入院して治療を始めた後だった。
70歳過ぎてパソコンを始めた父は、ほとんど独学で使いこなしていた。この闘病記も入院中にメモしたものを父がパソコンで打ち直したものだ。大学の同窓会で卓話を依頼されて書いた原稿を印刷して、闘病記として親戚や友人に配ったらしい。

退院後、わたしは改めて本棚から父の闘病記を探し出し、読み直してビックリした。わたしが自分で考えたと思っていた闘病スタイルは、父そっくりではないか。

f:id:ABOBA:20191004065438g:plain

 

わたしが驚いていると、人間ウオッチャーな夫は何をいまさらと呆れ顔で
「あんたのやってることは、お義父さんと瓜二つ、まったくおんなじよ」と言う。

たとえば、闘病記の中にこんな記述がある。手術後、意識が戻ると。

喉には口からと鼻からとパイプが入っておりそれが喉の奥に当たってかなり苦しい状態でした。しかし我慢できないことではないし、これが病気への挑戦だと思えば辛抱する他はないと思いました。この様な状態でしたが私は紙と鉛筆で疑問に思うことは何でも医師と看護婦に聞いて納得してゆきましたし、血圧・体温・脈拍・空気摂取量など測定する度に聞いて病状把握に努めましたのでだんだん快方に向かうのが確認できました。

このあたりの心境は、わたしにもなんとなく覚えがある。さらに驚いたことに

一般病棟に移り、初めての食事をしましたが最初は約半分がやっとでした。看護婦さんから「〇〇さん点滴だけではなかなか病気は良くなりませんよ食事はなるべく多くとってください」と注意されましたので、2回目から退院するまで総て100%とりました。最初の中は舌が荒れて妙な味がするのでとても食べられたものではありませんでしたが、もともとの大食漢この様な時にこそ本領を発揮しないでおくものかと、しゃにむに食べました。

100%完食…。身に覚えがありすぎる。もしや入院中、父が憑依して操っていたのではないかと思うほどだ。とくに食事中。

そして、最後に書かれていたのは、父の闘病に関する心構えだ。

私は人間の病気と言うものは、もともと自分の知恵と努力で治すことが本来的なものと考えています。ただそれには限界がありますので医者に補助的に助けを借りる、或いは今回の病気の様に医師の技術と医学の力で大きく改造していただく、又は自分の知恵で足りないところを医者の指導により考え違いをしない様にする等の必要があります。ですから、己は殆ど努力をしないで、医師の力のみに頼りきり、病気は医師にまかせれば良いと言った態度は間違っていると思います。どんな時でも己の努力を信じ医者の注意をできるだけ忠実に履行する様努力することが大事であると考えています。

まったく、御意にございます、としか言いようがない。この部分はうっすらと読んだ覚えがあった。なるほどなぁ、と思って頭の片隅に仕舞っていたのだろう。
この闘病記は、父が残した遺産。わたしはそれを無意識になぞっていたにすぎない。

父はなにかを修理するのが大好きだった。
壊れたおもちゃがあると夢中になって分解し、組み立てる。
ときに父のもとに持ち込まれるおもちゃは「こじれた人間関係」だったり「停滞して進まない何か」だったりしたが、知恵と工夫と努力で解決していった。
荒波を乗り越えて、ゴールインするまで諦めない。

おもちゃが直って動きだすと、まわりとハイタッチして達成感を味わう。
そしてまた壊れたおもちゃを見つけにゆく。そんな人生だったように思う。

f:id:ABOBA:20191004041000j:plain
会社のヨット部で国体に出場して優勝したときの写真は、翌年会社の年賀状になった


父の闘病記には、談話として面白い付録がついていたのだが、それについてはまた別の機会に。




にほんブログ村 病気ブログ 悪性リンパ腫へ
にほんブログ村

PVアクセスランキング にほんブログ村