どうなってんの? マントル細胞リンパ腫闘病記

2015年3月。脾臓の腫れから発覚した悪性リンパ腫。脾臓摘出・生検の結果、判明した病型はとりわけ手ごわいといわれ、 標準治療も定まっていないマントル細胞リンパ腫(MCL)だった…。 自覚症状のなさと医師のシビアすぎる診断とのギャップに頭の中はチンプンカンプン。いったい全体わたしの身体どうなってんの? MCLと闘う50代オバさんの記録です。

 

3. ウインスローうし

 

翌日も熱は下がらず。なんとか尿のカテーテルはとれてトイレには行けるようになったが、呼吸の苦しさも痛さもまったく良くなる気配がない。うつらうつら眠って目が覚めると相変わらず「うーん、うーん」とうなっている。ICUに移ります、と言われるのを今か今かと待っているのに、そんな様子は一向にない。

 

同室の患者さんにおしゃべりなおばちゃんがいて、お見舞いの人と話をしていた。カーテンごしに聞くともなしに耳に入ってきたのは

「歌舞伎役者のナントカさんは手術はうまくいったんだけど、熱が下がらなくてね、感染症で亡くなったんだよ」

というおばちゃんの声だった。これがわたしの耳元でささやいているかのようにハッキリ聞こえたのだ。熱が下がらない、感染症… わたしのことだ。

これは悪魔の予言だ! わたしも感染症で死ぬのだ。しかも誰もわたしの危機を察知してくれない。

 

思えばこの日が痛みのヤマだった。研修医の先生が様子を見に来たとき、ついにわたしは動いた。

「先生、痛み止めの点滴も熱さましも全然効きません。呼吸が苦しいし、これってなんかおかしいんじゃないですか。感染症かなにかじゃないんですか」と詰め寄る。研修医の先生は眉毛を八の字にして

「…ちょっと待ってください」と一旦引き上げて、すぐに戻ってきた。

「血液検査の結果、炎症の値が高いので、これから抗生剤を入れます。痛み止めも強いものに変えます」という。あぁよかった、これで助かるかもしれない。やっと胸をなでおろしたのであった。

 

おなかの傷は腹帯を装着していたが、腹帯の下にはガーゼもなにもなかった。傷はおへそから上へまっすぐ一直線に24cm。きれいな傷口で、もうくっついていた。ドレーンは2か所、チューブの先には廃液バッグがあり、毎日看護師さんが廃液を回収してくれる。バッグを入れた布の携帯袋をそっとのぞくと、バッグのひとつには「左横隔膜下」、もうひとつには

「ウインスローうし」と達筆で書いたシールが貼ってあった。

――ん? うし? スローなうしって何だろう。

 

猛烈な痛みは術後3日続いたが、癒着が恐いので、3日目には2時間に1回フロアを1周歩いた。4日目、廃液が透明になった「左横隔膜下」のドレーンがとれた。残るはうしだけだ。点滴棒につかまり、うしを肩から下げてフロアを歩く。前日より歩く回数を増やすと、お尻のラッパが鳴りました。おめでとう。ありがとう。

 

4日目の昼には初めての食事が出た。主治医のK先生は「半分も食べれば上等」と言っていたので、無理せずゆっくり半分くらい食べた。栄養剤の点滴も終了。

あれ? なんか少し楽になってないか。毎日見舞いに寄る夫は「だから言ったじゃん。まったく大げさなんだから」と笑っていた。

 

その夜、ベッドに横になって相棒のうしのことを考えた。なんだろう、うしって。わたしは、起き上って術後引き出しにしまい込んだままだったiPhoneを取り出し、「ウインスロー」で検索した。iPhoneの画面には

「ウインスロー

と出ていた。孔? あ、こうかぁ。うしの正体は孔だったのだ。なぁんだ。

 

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